植杭陣地の起源はオスマン・トルコ?世界史コンテンツ(のようなもの)番外編 ~植杭陣地の起源はオスマン・トルコ?~ 「長らくご無沙汰しておりましたシエルです。今日は僭越ながら私が講師を務めさせて頂きます」 「ひっさしぶりに見たわね~このカレー女。永久に死んでれば良かったのに」 「生憎と因果律的に死ねない体ですから」 「まぁまぁ、それはともかくとして、番外編ということだが…」 「はい。今日はイングランド人のパクリ体質を紹介したいと思います」 「どういうことだ?」 「先ずは、『莫迦と大莫迦』でのセイバーの講義を思い出してください…
「百年戦争の話ね。ヘンリー5世の機転でイングランド軍が勝利した戦いだったと思うけど、これがどうかしたの?」 「まさしくそれです!この応急植杭陣地はヘンリー5世の機転などと言われていますが、これはただのパクリなのです。それも異教徒どもの!!!!!11!!!!111!!!」 「あ、シエルがまた火病ったにゃ」 「ほう、そこまで言うからには明確な証拠でもあるのだろうな」 「もちろんです。こちらをご覧ください… ニコポリスの戦い(1396) バルカン征服をめざすオスマン=トルコが,1396年にニコポリスで十字軍を破った戦い。コソヴォの戦い(1389)で勝利したオスマン帝国は,バルカンの諸民族に対する圧迫を強めた。そのため,ヨーロッパでは反オスマンの気運が高まり,ハンガリー王ジギスムントを中心として,ポーランド・ボヘミア・ワラキア・モルダヴィアの連合軍に西欧諸国の騎士団も加わって十字軍が結成された。約2万の十字軍は,ブダから出撃しドナウ川の要衝ニコポリスに布陣した。一方,ほぼ同数のオスマン軍を率いたのは,「雷王」と呼ばれた第4代スルタンのバヤズィト1世であった。戦闘が行われたのは9月25日で,数時間の激闘ののちオスマン軍が勝利を手にし,十字軍は1万人以上が捕虜となった。その結果,ビザンツ帝国に対するオスマン帝国の圧迫が増大した。また,イスラーム世界におけるオスマン朝の地位が向上し,アナトリア方面における領土の拡大が促進された。 「・・・確かに、杭のようなものが地面から突き出ているように見える。アジャンクールの戦いが1415年だから、19年前ということか。イングランド軍も参戦したのだから、トルコ軍の植杭陣地をヘンリー5世が参考にした可能性は大いにあるな」 「まぁ、まったくの言いがかりって訳でもなさそうね」 「これでもうお分かりでしょう。アジャンクールでのフランス騎士の敗北は、ヘンリー5世の機転などではなく、ただの異教徒からのパクリの成果でしかないことを!」 「我がイングランドの王も随分な言われようですね」 「ようやくお出ましですか。しかし、ちょっと遅かったようですよ。もはやあなた方のパクリは証明されてしまいました」 「実にくだらない話です。ただの植杭陣地にパクリも何もないではありませんか。あなた方お得意の急襲戦術だってノルマン人が起源でしょう。まったくナンセンスな話に過ぎません」 「かんしゃく起きますか?ホルホルホル」 「。oO(・・・なぜ鮮人笑い?)」 「いいでしょう。では逆に聞きますが植杭陣地がパクリだとして、なぜ2回も同じ手に引っかかるのですか?」 「な、なんのことやら分からないニ…ですね!」 「ニコポリスでは、オスマン・トルコの事情や戦術を知るジキスムントの制止にも拘らず、名誉欲に捉われたフランス騎士の突撃で戦闘が始まり、偽装退却による誘因撃滅で西欧諸国連合が全滅しています。フランス騎士には学習能力がないのですか?」 ←逃走 「じぇg;ghg;smlsg、djんかっふじこkfじゃおpjk:」 「あ、逃げた」 「重要なことは、戦闘から如何に有用な戦訓を引き出して、それを活用するかということです。異教徒がどうとか偏見の目で見ていては、それも叶わぬでしょう」 「オスマン・トルコとの戦闘から新たな戦術を学んだイングランドと、相も変わらず同じ失敗を繰り返すフランスか。まぁ、それでも最終的にはイングランドは百年戦争でフランスに破れてしまう訳だが」 「『英国の国防線は英国の海岸でもなければ、海峡の真中にもない。それは大陸側の港の背中にある』とはサー・フランシス・ドレイクの言葉ですが、我々も百年戦争で多くを学びました。リトル・ブリテンの維持が必ずしも国益に繋がる訳ではないのです」 「さすがに言い訳が上手いわね~」 「それにしても、シエルは…帰ってきた思ったらまた消えてしまった」 「放っておけばいいじゃない?すぐに何事もなかったかのような顔して帰ってくるわよ」 「莫迦者も消えたようですから、私も失礼することにします」 「では、ここら辺でお開きにするか」 「は~い。それじゃ、またね~」 ※アイコンは眠りの園よりお借りしています。 |